mixiが嫌になるようなメンタリティが非コミュと呼ばれるんじゃない?

マイミクが増えれば増えるほど、書く内容がなくなっていく。(略)親や兄弟も、大学の友人も飲み友達も同僚も小学生の同級生も恋人も全部「マイミク」ということで同じ話題を話そうとしたら、それこそ「今日チャーハン食った。美味かった。」だとか「仕事忙しいです」だとか「これ面白かった。ワラタwwwww」などという薬にも毒にもならんしょうもない事しか書けなくなる。


[カツ紅 - そしてボクはmixiに絶望した]

http://d.hatena.ne.jp/akaiho/20061008/1160282192

(略)はkercによる

いいじゃん毒にも薬にもならんしょうもない事。大人数の宴会においてしゃべるようなことを書けばいいんじゃないの?たとえばなんだろうねぇ…、自分の周りの全ての人間関係が集まるような場の例…そうね、自分の結婚式を想像して、そこで話すような内容を書けばいいんじゃないの。

「今日チャーハン食った。美味かった。」これの何が不満なの?自分の深い思索や毒舌や思いがけない人との絡みが無いから不満だっつーのか。もしくは自分が薄っぺらで何も考えてない人に思われるのが嫌なのか。まぁそういう面があっても不自然ではないんだけど。


mixiはコミュニケーションツールだと考えるのが妥当だと思うわけ。もっと言えば、ネットワーキング維持ツール、もしくは人間関係メンテナンスツールみたいな。生きていくうえで、深く狭い人間関係しか持ってないのって不便すぎるじゃない。浅く広く形だけのコミュニケーションをとることは物凄く大事なこと。あいさつの有効性はここで再論するまでもないしょや。あーそうか、mixiは「あいさつツール」だと思えばいいのかもしれない。あいさつするキッカケを絶えず相互的に与えあえるツール。もちろん、あいさつをする人が薄っぺらいなんてことはない。

誰かにお近づきになりたいときに、会う回数を増やすのは当たり前にやってることだと思うんだけど、なんでweb上のコミュニケーションになるとそれが自然にできなくなる人が増えるんだろうね。多分「インターネットっていうスーパーツールを使えばいろんなことが思い通りにやれちゃうんだ」なんていう過度な期待がまだまだ存在してるんだと思う。

web上と現実空間で出来ること自体はそんなに変わらない。変わるのは手間とか手法とか規模くらいのもの。mixiでの人付き合いや自己表現が自分の思い通りに行かないと嘆くのは、現実空間での人付き合いや自己表現が自分の思い通りに行かないと嘆くのと大して変わらない。どうせなら、mixiでの試行錯誤を通してコミュニケーションに関する価値観を少しシフトさせてみたらいいんじゃないの、などと非非コミュである俺は思う。無責任に。


コミュニケーションが不得意な人に多い勘違いとして、話には内容が伴わないといけないなんていう観念があるように思う。「なんてことない話」ができない人。「雑談ができない父」を持つとそんなふうになるとかどっかで読んだことがあるけど、逆にこういう人の「濃い話」は割とクソつまんなかったりするんだよなぁ。世間話してるのに正確さを追求して「ツッコミ」のつもりで「訂正」入れてきたり、当たり障り無いこと言うような場面で深い話をされたりして。ただ、場が議論モードになってる時はこの種の人は活躍するし、面白い意見を持ってるから聞いてるほうも飽きない。だけどこういう人はいわゆる付き合いやすい人ではない。とりとめもない話、雑談、無意味な非生産的な話ができなければ、普通の人にとってコミュニケーションの機会は激減するのは明白。人と絡む回数が減れば、人との付き合いは小さくなる。

mixiという場はどんな空気なのか判断して、そこに相応しくてかつ自分に都合の良い接し方を選択すればいい。当たり前すぎるけど、mixiを特別視しすぎてこの辺が見えなくなってる人が多すぎる。