davidoffによるコメント

ったくよぉ、.docなんてはてな界隈で好かれるわけがない拡張子を使ってくれちゃって。この東大生がッ!!

注:
[kercの日記 - 多くの人が、村上世彰を理解できる頭を持っていないだけだと思う。]
http://d.hatena.ne.jp/kerc/20060606/1149555593
のコメント欄に投稿されたWordファイルを転載しました。

記事を興味深く拝見致しました。ここで少々長くなってしまい申し訳ありませんが感想を述べさせて頂こうと思います。

第一点:批判のあり方について(新規定義付の提案)
批判する権利を行使する前に(中略)「原則として、批判する対象のことはサラッと一通り調べ尽くしておく」
この点に関しては望ましいことであると私も認めます。しかしながら、この要求には実効性が乏しいと思います。「サラッと一通り調べ尽く」すという表現が抽象的に過ぎ、拡大解釈すれば全ての批判を否定し、全ての批判を肯定することになるからです。
そこで批判のあり方に求められ得るものを新たに提言致します。
但しここで私が提起するのは「現代社会に対する批判」といったような広範且つ直接人権に触れるような批判に適用すべきものでは無く、先輩のブログの内容に準拠し、特定の『人物』の人間性・思想・発言・文章等についての批判について扱うこととし、ここに限定致します。これはつまり批判対象が感情を持ち人権を持つ思考主体であることに特徴があり、この限定の正当性はここにある、と論の前に整理するものであります。
ここで本論に戻します。この場合、望ましい批判の要件にあたると私が考えるものは以下。
まずは「1.批判対象そのものの限定」
ある人物のある特定の発言、若しくはある特定の文章等、相手の思考の方向性を明確に認識できるものをソースとして批判を展開する。
これは批判対象の拡大・論の精密性の確保・憶測又は推測による批判の回避を目的とし、提言するものです。例えば言動・行動を批判する際に批判の対象が容姿にシフトし、「強欲な顔をしている」などと発言すればそれは説得性を欠く批判となるでしょう。また、論を展開する上では万民が事実と認識する情報がなくては説得性がない。こういったことです。
補足になりますが、ここで「説得性」という言葉を用いたのは批判の本質は「説得」に他ならないと私が考えているためです。裁判は対審により両者の意見も以って判事を説得することで成り立ち、殊一般社会では喧嘩や対立といった意見の相違は社会的にどちらがより多くの賛同を得られるかによって裁かれると言えます。表記が遅くなりましたが、この点はこの文の全ての意見の背景とします。
次に「2.批判方法が精密な論に基づくこと」
批判においては感情的手法を避け、批判対象の事象がもたらす「結果」の問題性を主張する、若しくは批判対象の論の決定的な不整合を付き、行為等の軽薄性を指摘するなど、論的主張の一様式を批判と為す。
これを提起する趣旨は上記1とほぼ同様です。説得性というものの重要性は上記述べておりますが、仮に大半の者が感情的に認容できるような事象でも、それをもって説得が成功したと見做すのは危険であると考えます。これは上記の「説得」の対象に問題があった場合を想定した措置とも言えます。ナショナリズムの高揚によりヒトラーが出現する、といった状況は何故生じるのか、それは感情的な手法ではなく、物事を捉える人々が減少したことにも一つの原因があるのではないでしょうか。この意味でこれは客観的な分析を説得の対象に求めるという、「批判の評価の正当性を確保するための批判者の義務」という言葉で置き換えてもよろしいかと思います。
以上2点、最初の問題として、私の意見を述べました。

以下、先輩の記事のテーマである村上氏関連の問題に私の視点を移行するに当り、論的には何ら問題がないこと、文章の長文化の回避を目的として申し訳ありませんが敬語文体を省略させて頂きます。我儘ではありますが何かを主張する際には簡潔性の問題から敬語は相応しくないという私の考えを汲み取り、敬意は上記までの文で表明したと考えて頂ければ幸いです。

第二点.社会的不経済と訴追についての主張の不一致(矛盾の指摘)
村上氏が訴追されたインサイダー取引は社会的不経済をもたらすがため禁止されている。「犯罪行為は客観的にも主観的にも責められることだ」としながら「村上氏がいつ社会的不経済を引き起こしただろう?」と主張するのであれば、村上氏が抵触した法律自体の立法趣旨が社会的不経済発生防止には『無い』こと、若しくは法律の適用範囲又は施行方法が社会的不経済発生防止の立法趣旨から『外れる』こと、若しくは村上氏の行動が違法なものではなく、立件が『不当』であることのいずれかを論証しなくてはならない。この論証が伴わなければ、上記の主張は矛盾したものであると言わざるを得ない。
記事の最終部にも法を犯した「点においてのみ彼は批判され、刑罰を受けることになるべき」旨の主張がなされているが、完全に法を社会と乖離させ、法の規範性・存在意義を無視した議論となっている。

第三点.完全なる感情論(論の正当性・自己矛盾の指摘)
「彼は頭がいい」「村上氏の(中略)テクニックは惚れ惚れする」「と、俺は彼に、まんまと思わされている」「村上氏よりも「頭のいい」人が」「凡人にはわからないレベルで善行を行っている」等、完全なる感情論での擁護。村上氏に関わる論の冒頭に「一体どれほどの人が、村上氏の活動を(中略)主観的要素を排した上で客観的に批判しているんだろう」は文理上、明らかな問題提起である。これに対して、擁護がこのような主観的方法に基づくのであれば、目指す表現と為す表現に乖離があることが明白で、自己矛盾、論理力の欠如と捉えられて然るべきである。

第四点.一般論でない主張に対する裏付けの欠損(論の正当性)
「倫理があるインテリは、正当な批判を受けるような行動をとらない」という発言について。倫理とは社会的規範を遵守し、自己の為すことについてその(社会的)正しさを強化するように振舞う精神であると一般に解されていると思うがいかがか。
これは倫理に限らず道徳・宗教・法律等、凡そ価値判断の潮流は社会に立脚するという考えに基づくものである。この点については私はある程度哲学・宗教学・法学の分野でコンセンサスを得ている考えであると私は認識している。であれば「正当な批判」を受けることを回避する者は、己を社会通念に照らして修正する道を知らず、倫理的とは言えない、という結論に至るのが当然であり、この点を考えた上で論を展開した上でなくば先輩の主張は利用できない。

第五点.論のテーマ設定自体の棄却(論の正当性)
以下「凡人は、頭の悪い僕たちは、彼を正当に酷評できるほどの論理を持っていない。万が一その論理を見つけたとしても、それを大衆の心を動かすカタチでアウトプットできるスキルを持っていない。」の点について。
現行迄に見てきた文章論理の欠如から少なくとも残念ながら先輩が「正当に酷評できるほどの論理」及び「大衆の心を動かすカタチでアウトプットできるスキルを持っていない」ことは明白。感情的手法では大衆の心を動かすことができる、という反論が想起されるが、それは現在マスメディアが村上氏の批判に用い、そして成功を喫している手法であるから、その点主張するのであれば記事大半の論拠が失われる。
そのスキルを持っていないことが凡人の要件であるとは先輩の文章からは確かに読み取れないが「うん。かなわないんだ、頭のいい人には。」の一節から論理とアウトプットのスキルが「頭のいい人」の要件であろうとは推察される。この点からすればご自身の論理では、先輩は今現在正当な言わば他者批判可能要件を持っていないと言うことができる。(補足すれば私は「頭がいい」という概念に対して、先輩とは異なる見解を持っている。従って上記の欠損によって先輩は「頭がいい」のではない等と主張しているわけでは当然ない)
ここで思うに先輩の記事は「村上氏を感情的手法により批判する人々」若しくは「凡人」に対する批判であると当然解釈できる。先輩の掲げる論理からして、ではこの批判はそもそも全うな形で成立していると言えるのか。自分より頭の良い人の批判ができない、そしてその頭の良さが「スキル」等と言った言葉に還元されるのであれば、決定的に芸術に対するスキルを欠く評論家は評論活動が不可能だろうか。世間で「頭が良い」と認識される帝大生を、他の大学の生徒は批判できないのだろうか。論旨が見えない。
恐らく「頭が良い」ことに対する先輩なりの定義と連動してはじめて、この主張に意味があるということなのだろうが、それでも矛盾していると言わざるを得ない。つまり以下のようなことである。
先輩の言うところの「頭が良い」の定義自体が大衆の心を動かすことを要件とするならば、村上氏は今現在大衆に批判されていないだろうか。村上氏が評価されたのは経済活動によってであって”論評”という活動はマスメディアが一応、これを専門的に行っているという前提に立つならばどうか。
いずれにせよ、具体的要件・イメージを提示せず、「頭がいい」「凡人」等の抽象論によって人の差別的待遇を為し、それによって批判批評の活動の正当性を語ってみても何も実は表現できていないのではないか。

以上です。

インターネットに一般公開されている日記に超長文のレスを付けることはテロリストの爆撃に等しい行為でありますから、「興味があれば」ということでここに提示致しました。憲法議論上通説となっている「特定の表現を目にしない権利」についてはこれによって確保したつもりでおります。


うわっ、さすが六法全書で勉強してるだけはあるな・・・。論理が明確で全く反論の余地が無い。

。「犯罪行為は客観的にも主観的にも責められることだ」としながら「村上氏がいつ社会的不経済を引き起こしただろう?」と主張

これは俺の書き方が悪かった。すなわち、犯罪行為は社会的不経済だけど、この文脈では「インサイダー取引を行うまでに」という譲歩が必要だった。

冒頭に「一体どれほどの人が、村上氏の活動を(中略)主観的要素を排した上で客観的に批判しているんだろう」は文理上、明らかな問題提起である。これに対して、擁護がこのような主観的方法に基づくのであれば、目指す表現と為す表現に乖離があることが明白で、自己矛盾、論理力の欠如と捉えられて然るべきである。

うん、これはまぁ、レトリックのつもりだけど、卑怯で不誠実な文章展開ではあると思う。

先輩は今現在正当な言わば他者批判可能要件を持っていないと言うことができる

まったくそのとおり。これに関してはエントリを書きながらニヤニヤしていた。基本的に小手先テクニックでおもしろがられる記事をかければいいや、と思って書いてたからなぁ。

そうだねぇ、自分の中だけで確立しちゃってる論理を、前提ヌキで語ってるろこは大いにあるように思う。

ここまで誠実な批評をされたのは人生初だから、すごくうれしく思うよ。またベイリーズ飲みながら徹夜で抽象的で曖昧な議論をしたいね。